高校野球の地方大会が真っ盛り。球児の汗と涙は、日本の夏のひとつの風物詩ですね。ただし、私は選手生活最後の日、高3夏の県大会で敗退した直後も泣きませんでした。
やせ我慢をしていたわけではありません。素晴らしい仲間たちと懸命に努力し、充実した2年半を過ごせたことに満足していました。負けた悔しさや、甲子園の夢が破れた悲しさよりも、翌日から待っているだろうフリータイムへの高揚感のようなものが優っていたように記憶しています。
人前でひどく叱られたり、卒業式で惜別の念に駆られたり。学生時代にはそういう経験もしていますが、涙とは無縁でした。今どきの子はどうか知りませんが、私たちの昭和末期から平成初期の時代には、学校生活で涙を見せる男子というのはほとんどいなかったように思います。
それでも私は実は一度だけ、校内で同級生を前に泣いたことがあります。今でも尊敬する亡き母(※コラム第1回参照→こちら)を偲びつつ、ここで打ち明けたいと思います。
通った都内の中学には軟式野球部がなく、学年で1人だけ硬式野球の台東ポニーでプレーした。写真は2年生当時
国や世代を超えて愛される日本のアニメ『ドラえもん』の中に、ジャイアンという手荒な少年が出てきます。
さすがにこのご時世にあって、描かれるキャラクターや言動は、信じられないほどマイルドになっていると聞き及びます。「オマエの物はオレの物。オレの物はオレの物」――昭和育ちなら誰もがピンとくる、理不尽なこの名セリフも今の子にはあまり通じないようです。
とにかく、体が大きくて、力も気も強くて、交友関係ではやりたい放題の粗暴な少年。それがジャイアンであり、中学2年生の途中までの私でした。
小学生で身長は160㎝近くあり、クラスで後ろから2番目。運動が得意で、野球の腕前も断トツのチームのキャプテン。学校でも野球チームでも、腕力にモノをいわせて好き放題の身勝手をしていたように思います。
小6の台東区陸上競技大会。学校のプラカードを持つ大柄な少年が筆者
そして近隣の複数の小学校から生徒が集まる中学校に進むと、その度合いがさらに強く。誰が一番強いんだ!?――自分以外の腕自慢たちと、あり余るエネルギーをぶつけ合い、頂点にのし上がったのが私でした。
当時はそういう意図や自覚はありませんでしたが、学年を牛耳っていた感じ。己の力を誇示したいという欲求は膨らむばかりで、力試しはやがて校内の域を超えて…。一方で、犯罪やそれまがいに手を染めるようなワルさとは無縁。校舎のガラス窓を割ったり、先生に暴力で抗うような非行少年とは違いました。また、野球では先輩からも一目置かれる存在で、学校生活でも上級生から可愛がられていました。
ジャイアンさながらに、演劇会でも皆を従えていた?(小6、左端)
私の通った中学校は、東京都の浅草界隈。満足なグラウンドがない代わりに、屋上が解放されていました。また、軟式野球部がないので私は学年で1人だけ、硬式野球クラブの台東ポニーでプレー。クラブ生は全員、五厘刈りでした。
学校では学年唯一の丸刈りは、否応なく目立ちます。しかし、「ハゲ」などの軽口や笑いが聞こえようものなら、私は容赦をしませんでした。友人には勝手に優先順位をつけており、あれこれとアゴで使ったり、理不尽を仕掛けて笑ったり。今風の言葉にするなら、周囲を「イジり倒していた」わけです。
台東ポニー時代。左から2番目の捕手が筆者。1学年上のエース・小池貴昭さん(右端)は、2013年に全日本学童8強入りした千葉・磯辺シャークスの監督を務めている
そんな息子が原因で、母が学校に呼び出されることも、たびたび。ある時は同席した友人の母親に泣かれて、このように言われたこともありました。
「あなたのせいで、ウチの子は学校に行きたくないと言っています。あなたには人の痛みがわかるの?」
さすがに悪いことをしたな、とその場では反省。でも私からすれば、じゃれ合っていただけで、相手(友人)も楽しんでいると感じていました。そしていざ、その友人を前にすると、ジャイアンは開き直って言ったのです。
「オマエの母ちゃんに泣かれちったよ」
孤独な学校生活が始まったのは、それからしばらくしてのことでした。
よく群れていた友人は10人ほどいました。ところが、いつものように近寄っても話し掛けても、誰も何も反応をしなくなってしまったのです。それもある日を境に、ピタッと一様に。
いわゆる「ハブンチョ=仲間外れ」。登校から下校まで、どこで何をするにも独りでポツン。そういう中で、救いは週末の野球でした。
中2夏の合宿にて。硬式クラブでの野球は、孤独な学校生活を忘れられる時間でもあった
硬式クラブの仲間や先輩たちは、私の学校で置かれた状況など何も知らなかったので、付き合いもそのまま変わりませんでした。結果として、この「逃げ場」がジャイアンを救ってくれた面も多分にあると思います。
それでも、中2夏の修学旅行は酷でした。2泊3日、学年全員で長野県の霧ヶ峰方面に行ったのは確かですが、あとは何ら記憶にない。地名も名所も宿も食事も風呂も…。団体の中でのポツンと一人旅は、それほどブラックだったということです。
学校で全員から総スカンを食らっている――。話し相手もなく淋しかった私は、慰めを求めてその事実を母に告げました。しかし、返ってきたのは戒めの言葉でした。
「自分が招いたんだから、しゃあないよ。アンタがこれまでやってきたことだからね。絶対に逃げちゃダメ! 学校は休ませないよ!」
女手ひとつで、食べ盛りの兄弟のために朝も夜もなく働いていた母。それなのに、息子の悪事で何度も学校に呼び出されては、黙って一緒に頭を下げてくれた。「勉強しなさい!」も「手伝いなさい!」も言ったことがなくて、息子が決めた進路や考えごとには「いいじゃない!」と決まって肯定してくれる。そんな最愛の母の口から初めて出た強い命令が「学校を休むな!」だったのです。
命を受けた私は結果、皆勤賞をとることになりますが、どこまでもゴールの見えない自省の日々は結局、半年ほど続きました。
小学校入学式の一枚。ガキ大将だった筆者も、最愛の母にだけは頭が上がらなかった
「ちょっと、行こうゼ!」
幼稚園から一緒の幼なじみから、校内で久しぶりに話し掛けられた孤独なジャイアンは、屋上手前の踊り場で待ち受けていた友人らの前に連れて来られました。そしてその中の一人が、口を開きました。
「これまでハブンチョにしてきて、ゴメンね」
聞いた途端に、ジャイアンはこみ上げる涙を堪えきれなくなりました。
「いや、こっちこそ悪かった! ホントにみんなに申し訳ない。自分勝手でゴメンな…」
その瞬間から、まるで何事もなかったかのように、明るくまた健やかな学校生活が始まったのでした。そして気が付けば、ジャイアンはもうそこにはいませんでした。
多感な13歳から14歳の時期に、これだけの経験をしたことが、今の私に生きているのは当然です。
同じ人間でも、一瞬で変わってしまうことがあるし、良くも悪くもそれを招くのは自分かもしれない。人からの頼みごとには誠心誠意を尽くすことから、関係は始まっていく――教訓はまだありますが、今思い出しても泣けてくるような学生生活のエピソードは、この一件だけかもしれません。
「友だちがきょう、やっと受け入れてくれて、みんなと仲直りしたよ」
仕事から帰ってきた母に、その日のうちに報告できたのも幸いでした。本家? と同じく、母にはめっぽう弱いところはジャイアンのままです。
(吉村尚記)